あるべき特徴の捉え方
別におフランスな生活を送っているわけではありませんが、ファミマのフィナンシェがおいしんですよ。
外カリ中フワの魅力は伊達じゃないってことだと思うんです。
閑話休題。
間違いは「否定」の対象としてのみ存在しているのだろうか。
ネガティブなオブジェクトにはいつだって、反対因子がぶら下がり、価値のないモノとして否定され、ほったらかされてしまう。
悲しみとか不安とかそういった類も該当するのでしょうか。
そうして、正しい物だけしか見ない事が正しいと、そう思い過ごしている人も多いのではないだろうか。
本当にそうなのだろうか?
それが間違いであったこと、間違いであると理論づけたことに意味はないのだろうか。
間違いが間違いと認識され否定された事を踏まえて、そのオブジェクトを見ていく意味はないのだろうか。
間違いにより反れしまった観点の果てに答えがある事もあると考えるのです。
しかし、よくよく考えて見ると、その答えの側に「その間違い」があったなんてこともきっとあるはずなんだ。
間違いから学ぶことに意味があるとかそういう話ではなく、そのオブジェクトに対する判断基準として、間違いも時には説明に必要であると言いたいのである。
正しさを積み重ねるだけでなく、間違いも積み重ねる価値は大いにあると考えるのである。
それこそが「正しい」と「間違い」の狭間に揺れる均衡の正体なのではないだろうか。
それこそが「深い理解」へのきっかけなのではないだろうか。
そう、間違いは「在るべき特徴」なのである。
■ご支援として一読お願いしまぁ~す
■twitter(フォローお願いします)